.麻祈は、開封した使い捨ておしぼりで、手指を拭いていたところだった。最後に手首までぐるりと清拭してから、それを適当に四つ折りにしている。
「注文、品書きも見ないで。マスターシュじゃなくても、ハズレはないですよ? 単品をいくつか頼んでもよかったし。バスで帰るのなら、食前酒がつくコースだって問題ないでしょう。まあ、あるかどうかは別問題ですが」
(い、今の注文、マスターシュってコース料理だったんだ……食前酒がないやつだったんだ。わたしは別にそれでいいけど……)
「坂田さん?」
「ええ。あの。はい」
注文するつもりでなく、麻祈の語気から棘を抜くために、泡を食ってメニューを開く。
ワインレッドの厚紙でなめされた表紙を開くと、日本語に外国語で読み仮名を振る形式で、料理名が書き連ねてあった。一品料理やコース料理、飲み物にデザートと、思った以上の数がラインナップされている。ただしどのページの料理名も三分の二ほどが、細い黒テープで横線を入れられていた……各ページの下に添えられている『時候や営業時間の関係による品切れには何卒ご容赦くださいますよう、お願い申し上げます』との一筆は、単なるクレーマーへのバリケードではないらしい。二筆目に、『特に日暮れ以降に御予約なくお越しくださったお客様につきましては、品書きの修正が追い付いていない場合もございますので、お手数ではありますが口頭にて店員に注文可能な品であるかをご確認ください』と書き足してあるページさえある。千客万来の大型店になろうという野心など微塵も感じられない。
更には、それを証明するかのように、これから繁盛しそうな気配すら感じられない。自分たち以来、客足が途絶えているようだ―――少なくとも、今夜は。今のところ、ふたりきり。
(いいんだけどね。わたしには)
複雑である……もってこいのシチュエーションだけに、その設定の中にいるくせして、たびたびシノバと麻祈の知己然とした雰囲気に置いてきぼりを食らってしまう自分の心境が、なかでも複雑だ。麻祈とて、未婚の男女が夕食を共にするという展開に何かしらの注視を向けてくれてもよいと思うのだが、どうにもシノバとの旧交の温めと乃介蔵流サービスから、アンテナが逸れてきそうな気配がない。
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