.店の中は閑散として、こちらの足取りをもたつかせてくれるような要因は見当たらない。こんなに外国の酒場じみたバーが設えてあるのだから、乱痴気騒ぎをした客が悪ふざけ紛れに酒瓶の一本くらい床に転がしてくれていてもいいものを―――
(て、逆恨みしてる場合じゃないし、そのシチュエーションだったら確実にわたしコケる役回りだし! ああもう!)
いっそ腹痛のふりをして個室に立てこもり、思案する時間を稼ぐか? 目線を振ってトイレを探した途端に、バーカウンターの隅のレジのところでこちらを待ってくれているシノバと目が合った。のみならず、柔和な笑みを返された。駄目だ。もう嘘をつこうなんて大それた真似は試せない。
と。
「坂田さん」
「ひゃっ!?」
跳び上がりつつ振り向くと―――バレエのような優雅さなどない半ひねりで終わったが―――、いつの間にかこちらに追いついてきていた麻祈が、背後に立っていた。そして、手の甲を上にして、その陰になにかを持った手を差し出してくる。
わけも分からず受け取ってから、紫乃はそれが彼の財布だと気付いた。
「すいません。会計これでお願いしていいですか? カードでと伝えて、これを丸ごと出すだけで構いません。篠葉さんが手続きを知っていますから」
「え? 麻祈さん? 忘れ物でもしたんですか」
「そう。ちょっと他にも」
頷くと、麻祈は手を離した。その手で、奥のレジに向けて、財布を押し出す―――ちょいっと、紫乃の掌ごと。
(あ。触られちゃった)
「カードのサインしに、すぐ戻りますから、ちょっとだけそこにいてください。待っている間、レジ回りの壁に貼られた写真でも御覧になっていたらいいですよ。ホント、お勧めします」
とんぼ返りの直前に、麻祈が言い残していく。
紫乃は財布を握りながら、再びレジへと歩き出した。彼の言葉ではなく、別の衝動に従っていた。
彼のポケットの中で体温を吸っていた革財布は、人肌の様に温かで、やわらかな重さで紫乃の指に馴染んだ。手を握るようなその錯覚を味わってしまったなら、もう味わわずにおれなかった。寸前に触れられた感触を、残滓でいいから求めていた。
(馬鹿だなぁ。わたし)
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