.紫乃に聞き取れたのは、そこまでだった。麻祈はそれから、顎の前でわたつかせていた片手を引っ込めると、またしても何事かを口走る。それが早過ぎる。英語だ。聞き取れない。ただし、それに伴う情動が、もの凄く分かりやすい。素直に驚いて、そのことに戸惑って、喜びの到来を予感したことを疑っている……それに対してシノバは、
「るァイト!」
喝采を続けると同時に、これ以上なく破顔して、両手に作ったVサインを顔の両側に立てた。その人差し指と中指を、くにくにと曲げる。カニのモノマネのようだ―――
途端だった。麻祈が、見たこともないほど喜んだ。踵で床を打ち慣らして、押し殺した歓声に喉を震わせる。歌うように高らかに歓喜を告げて―――バーカウンターが無ければ抱きつかんばかりの様相だったので、歓喜なのは間違いなかろう―――、そのうちスキップになるんじゃなかろうかといったステップで店の奥に歩き出した。とは言え、店はバーカウンターで切り取られている以外に仕切りがないし、有り体に言って大型店でもないので、見失う不安もないのだが。
よって急いで追いかける理由もなく、ぽつんと取り残されてしまった紫乃だったりするのだが、そうされたことに落ち込む余地もない。まずは、その疑問に席巻されていた。
(シノバさんの、今のカニさんポーズなに……?)
カニ料理が出るのだろうか? となると、麻祈は生け簀にペットのカニでも飼っていて、それを料理して出してくれるということなのだろうか? 水槽の中から選んだ鮮魚を活け造りにして出してくれる割烹料亭についてテレビ番組で視聴したことはあるが、この店の洋装然とした風格とはかけ離れすぎてはいまいか? という以前に、生け簀でカニが飼えるのか?
(いやでもサワガニくらいなら、なんとか……)
「振り向きもせず、特等席行きとは。本当にお疲れのようだ」
「え?」
「ふたりきりでない常ならば、苦笑してかわすんです。彼はね。英会話」
脳内で勝手に譲歩していたことも忘れて、紫乃はきょとんと目の前のシノバに顔を向けた。
「―――あまり、喋りたくないらしい。あんなにも、ほっとした顔をするくせして。日本人で英語を習得しているのは、強みだろうに。今まで一体、どんな目に遭ってきたのやら」
彼は、麻祈を目で追っている。明るすぎない照明に照らされた横顔は、今は笑い皺を失って、膿んだ心配を染み出させていた。
「酔って大らかになっている時は、自然に喋り出すことも多いのですけれどね。……どうやら今日は素面のくせして、泥酔している並みにふらふらのようだ。深酒したがったら、窘めて差し上げなくては」
「はあ」
と、相槌を打ったのが決定打となった。
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