.怯えないでいられるうちに、そっと彼へと近づく。スロープを降りながら、紫乃は勘に従って弁明を続けた。誰が・どうして・そうしたのかを、彼にとっての序列―――店長・古参客・新米客―――を乱さない文脈で、必死に言い募る。
「わたし、人様のそういうの、扱ったことがなくて、こわくて。篠葉さんに任せてたら、こうするのが一番だって、麻祈さんの財布を拝借して、会計を済ませてくれたものですから……」
ついに、スロープから、駐車場に降りることが出来た。
その勢いで、彼の前まで、たどり着く。
「あの、これ、おつりです。小銭入れ、このお財布と別ですよね? 使った感じなかったので」
麻祈は、探るような眼差しで、紫乃が彼へと差し出した財布と釣銭を眺めてきた。その双眸はとうに静まり返っていて、紫乃を撥ねつけるように焚いていた感情を屈服させられたことに対する不服も不平も宿っていない。ただし、それとは別の論拠が、反駁を呑みこませてくれなかったらしかった。言ってくる。
「俺、確か今日、五千円一枚くらいしか財布に入っていませんよ。だったら足りるはずないでしょう。支払い」
「え? だって、あの料理、全部で四千円ちょっと切るくらいでしょ? お酒を一杯飲んだにしても、麻祈さん、わたしと同じもの食べたんですから。足りてますよ。五千円で」
時が止まった。
と言うのが正しいのかなんなのか、とにかく麻祈が目の動きどころか呼吸も肩肘も固まらせて、紫乃の両手の握り拳を見た。中身を透視したはずもなかろうが、残念ながらそれに成功してしまったと言わんばかりの顔つき―――疲れ切ったような、疲れ切っていることを諦め慣れたようなそれ―――をして、ようやく財布と小銭を受け取る。革財布を検めて、レシートに丸められていたコインの枚数を、目線で数えた。そして、呻き声を枯らしてくる。
「割り勘って。あなた」
「え? え?」
「俺が出して当然だとは思わなかったんですか?」
(当然だと思うような図々しい印象が、わたしに!?)
真顔で言ってくる麻祈に、ぎょっとする。
ぎょっとするのだが、そのはずみで気付く。
押しつけがましくも、不要品を返しに行ったのは誰か。入浴を中断させたのは誰か。そういえば今日、玄関先から家に上がった時、家主の許可をもらっていなかった。洗濯籠に難癖をつけ、冷蔵庫の中を覗き、出しゃばった挙句に夕食の約束まで捏造―――
(ぎゃああぁぁぁ!)
穴があったら入りたくなる。なるにせよ、穴はないし、それよりなによりどれでもいいので麻祈から悪印象を撤回したい。紫乃は動転まかせに、必死になって否定した……動転するような裏があることを否定したかったのもあって、それはもう血相を変えて、まくし立てた。
「思いませんよ! そんな! わたしは麻祈さんと食事を楽しみに来たんです。麻祈さんに食事を奢ってもらいに来たわけじゃありません」
麻祈は―――
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