. 彼女の正面の席にさっさと座りながら―――日本で極力レイディーズ・ファーストを控えるようになったのは大学時代の祟りだ―――、麻祈は胸中で小さく歓呼した。窓の外から見える風景は、麻祈の位置からは乃介蔵の駐車場より奥まった民家で、坂田の位置からは道路とそこを行き交う通行者のはずだ。つまり道を行く通行人から注目されたところで、麻祈が見られるのは後ろ頭で済む。戒心を凝り固める要素は、少ない越したことない。
そのせいもあったのだろうか。その後の食事も会話も、和やかにリラックス出来たのは。
坂田はテーブルの上に携帯電話を置くこともなかったし、テーブルの下で靴を脱ぐこともなかったし、身近な人間関係の好悪を独善的に批評して口さがなく盛況したがったりすることもなかった。腸詰のコーナーに書かれたSaucisseとWurstを英語だと勘違いしたくらいはお愛嬌だろうし、フランスのものとドイツのものを並べて記すような酔狂に対する反応としても悪くない……まあ、フランスではこの地方産がどうだとかドイツではスモークがこうだとか蘊蓄で汚されるよりは、言葉通り色々違うんだなぁという程度の飾らない素朴さの方が好感が持てる。ゆえに彼女が気に入ったという短絡的なことではなかろうが―――否、それ以上に短絡的な話、単に客が少なく時間を持て余していたというのが妥当な線だろうが、なにくれと篠葉がもてなしてくれたのも心地よかった。なによりも、食事に魅了された。以前、篠葉の戯れに付き合って、“くちひげ(Moustache)”と名付けたコース料理である……作り手である篠葉の生やした口髭のように、目立たないように手を込めているくせして、手ぬかりなく手抜きしない、そんな食事だ。鼻を抜ける湯気からさえ、うまみが分かる。舌頭をひたすまでも無く、舌の根までまろみに痺れる。突き出し、汁物、菜物、焼き物と続く舌鼓に、我を忘れた。その証拠に、控えようかと思っていた酒まで飲んだ。美食の誘惑は底なしだ。
効能とて、そうだ。満悦至極して、晩餐が終わる。
麻祈としては、最後に坂田を御手洗いに誘起して、その隙に会計を済ませてしまう算段だった。席を立ち、忘れ物はないか念のためぐるりと視線を一巡させた、その時までは。
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