.言いながら、麻祈は軽く嘆息した。落胆は紫乃でなく、あくまでミニキッチンに向けられている。その眼差しで、問いかけが分かる。ほら、こんな場所なのは誰のせいでもないんだから、お互いに利用しようじゃないか?
「陸(おか)に上がった河童って諺もありますし。というわけで、残念ですけど、」
「いいえぇ! そんなのじゃ諦めたりしないんだから」
決意を固めるように、紫乃は髪留めに手を回した。一瞬、後ろ頭の上の方で髪の流れを整えるために鏡の前で格闘した分数が脳裏をよぎるが、それでも取り外してうなじに束ねる。首の裏で手を組むような姿勢になっていた。
だから腕を下げた時になって、こめかみまで顔を寄せられたことに気付いた。
「正直言うとね。ゴキブリ来るんです。その台所。おいしいものを時間をかけて作ると、特に」
言われて、なお動けなくなる。言葉混じりの吐息の感触が耳から消えるまで。
消えてしまえば、言われた意味の方が、身体を縛った。ついさっき、アパートの外壁で蝉と勘違いした時と同じように。
「こわい? こわいんだ」
とにかく必死に、紫乃は首を振った。ふるふると、横に小刻みに。
にやついて、麻祈はこちらへと捻っていた上体を戻した。
そして、腕を組む。首を逸らすようにドアの枠にもたれて佇む様子は、料理人が弟子を遊び半分に指南するそれのようだったが、目端に宿った陰険な笑みは不釣合いなまでに無邪気で幼い。からかっているのだ……ただし、目の光にまでは、笑いは差されていない。核心のところは笑い飛ばせやしない真実なのだと、暗に告げている。ざらりとした不穏な雰囲気も、ぞっとしない虫の逸話も。
洋間の冷房は今までずっと廊下に流れ込んできていたはずなのに、一気に風量が増した気がした。
それを無視すべく、まるで独壇場で演説するように両手を台についたまま、紫乃が目線を前に固めていると、
「半熟卵の親子丼とか、手を離せない時に限って、でっかいのが一匹やって来ましてねえ」
呟きつつ、麻祈がミニキッチンの水切り棚に手を伸ばすのが、視界の端に映った。取り上げたのは、菜箸だ。そして、なにかを摘むには大袈裟な威力で、それを使ってみせる。打ち鳴らされた箸の先端から、かっ・っか、と音がした。
「料理中だと、噴霧タイプの殺虫剤も使えないでしょ。油断してると―――」
と。
音が止んだ。そして、感触がした。台所についた右手、その小指の付け根に―――虫が乗ったような。
麻祈が、菜箸の尻で、触れていた。それは見えていたのに、それでも反応しかけた身体を、前歯で唇の裏を噛んで必死に食い止める。
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