.驚いて、音源を振り返る。背後だ。麻祈が片手で、己の頬を押さえていた。どうやら、ビンタしたらしい―――壁の虫にそうするように、自分の横顔を。
ただしその表情は、あたかも素手で害虫を握り潰すしかなかった直後のような胡乱さに満ちていた。疲れ果てて肩を落とし、眉と口の端を下げ、重たそうに瞬きして……この数十秒で、どことなく輪郭までも肉を萎びさせたように思える。まさかとは思うが、―――言葉を、投げかけてみるしかない。
「ご、きぶり、素手で、やっちゃったのかと、思いました……」
返事は、こうだ。
「……例え話として、実に惜しい……」
「おし、惜しかったんですか!? ニアミスったんですか!? 手!!」
「ははは。あはははあ。そんなわけありませんですよぉ。ははは」
へらへらと、平坦な声で笑い飛ばしてくる。
それも束の間だった。顔を押さえている掌の下で、さっと表情が塗り変わる。それが喜怒哀楽のどれなのかは、分からなかった……分かる前に、彼が唾棄した。恐らくは英語で。
「ごゥファっキュアセル―――ディっく!」
そして、壁に頭突きする。
がん! と衝撃と激突音が過ぎ去ってからも、そのまま壁にぐりぐりと額を押し付け続ける。引き攣った五指が、捕食に備えた大蜘蛛の脚のように、尖端をきしきしと壁面に突き立てていた。
さすがに腰が引けてしまうが、物音が静まれば混乱とも距離を置けた。そっと、彼に一歩を詰める。嫌がらない。二歩、三歩と進めて、触ってしまうのは躊躇うのだけれど挙げてしまった片手を持て余しながら、へっぴり腰のまま彼を覗き込む。
「あ、の……なんですか急にどんよりとして? だいじょ、大丈夫ですか? たんこぶ出来そうですか?」
「す、いません。ちょっとここしばらく、寝れなかったり、食事を摂れなかったり、欲求不満が。その。ごっちゃになって。はは」
から笑いした顔を固めて棒読みを終えても、麻祈はしばらくじっとして顔を上げなかった。呼吸を落ち着けるように再三にわたって溜息して、音のない嚥下を繰り返す。喉仏がひくついていた。
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