(日本の夏やだ……)
ぬるぐさい。むわっと温くて、むわっと臭い。服の一枚だって着たくないどころか、脱皮したくなる不快感だ。ワンルームにエアコンをつけっぱなしにしてドアを開けておけば済む話だが、害虫の悪夢に見舞われてからは、恐怖が勝って実行できない。害虫―――
「……失せろ(Bugger off)―――」
靄掛かる脳ですら看過できず、悪夢の権化を低音で怨嗟しながら、そっと視線を巡らす。洗面化粧台、トイレのドア、廊下。楕円の悪魔はどこにもいないが、洗面化粧台の影やドア一枚向こうにいたところでおかしくない。その危惧に思考が触れた途端、着衣にぐずついていたいという欲は失せた。あちこち引っ掻けながら、ようやく下着とジャージーのズボンを穿く。
その時だった。インターホンが鳴ったのは。
(……日本の音がする……)
それが分かる。それが分かるためだけに、日本で居宅を選ぶ際は、呼び鈴のメロディを段の家の類に揃えている。呼び鈴を鳴らすのは持て成すべき来客であって、ろくに確認もせず玄関を開錠した方がいいのは日本だけだ―――うっかりあちらまでこの風土を持ち帰ったが最後、強盗を招き入れてしまったりしたら、目も当てられない。だからこそ、この音がしたのだからこそ、こんなポンコツ頭でもここが日本だと分かる。としたら、誰だ? 宅配便か? セールスとか宗教とかそういった、今までの自分にオサラバして友達に差をつけよう的な、浮世離れを唆す勧誘の類か? そういえば、勤務の間にひとつふたつ自前の携帯電話に応答した気もするが、睡魔に毒された記憶を手さぐりしたところで、何も掴めやしなかった。まずもって、なにか掴めるまで手探りを続ける精根が尽きている。
(……まあ、日本の音だから……このまま応対してもいいや……)
丸腰で玄関先に出たところで危険はない。例外がないとは言い切れない時もあったが、薬物・帯剣・帯銃には取り締まりがあり、取り締まりを無視してまで満たしたい我欲を持て余した奴が珍しい程度に豊かな日本は、日本人が一般市民らしく暮らす分には安全だ。反面、デジタルカメラをテーブルに放置して便所に行っても盗まれやしないのに、傘立てには鍵がついている謎は解けずじまいだが、それこそ今は別にどうでもいい。
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