「このへんとか、這い上がられた経験、あります?」
言ってくる。紫乃の手を、棒の先で軽く突いたまま。
悪ふざけだ。負けるわけにはいかない。連想は続いてしまうとしても。
言い返してやる。
「いいえ」
もっと言い返す。そのはずだった。
小指の付け根の感触に動き出されて、言葉が散った。這い上がってくる―――
「このへんは?」
手首。肘。二の腕。半袖の袖口―――の、中。
肌の外ではなく、内側のふかいところが粟立った。悪寒とは異なる生温かい戦慄に、今までにないような恐怖を覚える。たまらず紫乃は、ばっと腕を胸倉に引き戻した。その場からも飛び退いて、片腕を抱きしめる。さすってみると、知り尽くしている自分の腕でしかないのだけれど。
だからこそ寸前の感触が気味悪い。それを植えつけてくれた張本人は、こわごわと見上げられた途端にばつの悪さが芽生えたようで、両手を降参のポーズに掲げていた。持ったままだった菜箸をミニキッチンに引っ掛け直して、それでもまだ紫乃が牽制し続けているのを見て、微苦笑を明確な苦笑に変える。
「ね。やめときましょう。今のだけで、想像するのも嫌になっちゃったでしょ? 俺だって、袖口から脇の下にインされてからは、もう懲りちゃって、」
「やめません」
告げる。
より甘言を突っぱねるべく、紫乃は麻祈に背を反した。
「諦めません」
言い終えると、ひどく惨めな思いがしていた。
(麻祈さん。それだって、まるごと忘れちゃってるのかな……)
ため息は、つかずに済んだ。
パン! と、音がはじけたからだ。前触れなく、机を下敷きで叩いたような。
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