「名前の漢字だって佐藤さんから聞いてますよ。布地の『麻』に、祈祷の『祈』でしょ。他に知ってることも教えてあげましょうか? 日本を住処にした理由は水と茶と酒が旨いからだとか、ひとり暮らしの部屋選びの譲れない条件はインターホンの音だとか、」
目蓋を開く。従業員が、新たなビールを運んできたのを察したから。
麻祈は相手がグラスを配膳するのを待たず、その手からビールを横取りした。のみならず、そのまま口をつけて、胃へと液体を流しこむ。ニガしょっからい麦ジュースなど飲みたいはずもなかったが、今はそのひと口を飲み下す都度に内臓が軋む音こそを鼓膜が欲していた。
中ほどまでグラスが空き、消化管の蠕動が次段階へシフトしても、陣内の話は終わらない。
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「医大を首席で卒業した時にもらった栄えある金の懐中時計をキッチンタイマーにして身内を卒倒させたとか」
そして。
「えぇー? マジ? 不思議ちゃんってやつですかぁ?」
男の誰かも、いたずらな喧伝の尻馬に乗ってくる。
なれば、そう仕掛けられたドミノ倒しのように、総員の顔がぱたぱたとこちらに集中してくるのは分かりきっていた。その兆候通り、ふわふわと纏められていた綿が縒り上げられて糸となるように、好奇心がすべからく自分へとベクトルを増大させていく。
(めんどくさ……)
言葉にするのも億劫で、麻祈は無言のまま、肘をついた手の先にぶら下げたビールグラスに口づけていた。自分から喋る必要はない。周囲は囀っている。今この時は、女と陣内が。
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